2025年03月20日 00時19分

明治4年まで吾平山上陵の横に本殿、舞殿、拝殿ある鵜戸六所大権現が存在

 鹿屋市吾平町麓の市役所支所隣にある鵜戸神社。
 昔は、吾平山上陵から川を隔てて山陵奉拝所の東、ひときわ小高いところにあった。

 山陵誌によれば「窟の前に小川流れたり、石川にていと清けし、川を隔てて葺不合ノ命を祀れる御社あり…」とされている。

写真=明治4年まで陵の隣にあった鵜戸六所大権現(右下が陵)

 明治4年風雨災害のためご神殿大破に帰し、御神殿修復になるまでの間、麓八幡神社(現在の支所南隣にあった)へ仮に御遷座なされ、同6年1月郷社の格に定められたが、ついに元の地へ御帰社はなく今日に至り、八幡神社境内は鵜戸神社境内になった。

 八幡神社は明治4年末頃に上名中福良へ御遷りになり今日に至っている。

 この鵜戸神社、昔、鵜戸六所権現、鵜戸権現、鵜殿神社とも称された。
 権現と称したのは、この社に行基菩薩や六観音の像を造って神代とあわせ祀り神仏こんこうをなしたからである。

 天平十九年(七四七)九月十九日、勅して六所大権現と号し、弘安3年(一二八〇)二月十日勅使が都からこられたことがみえているという。
 また鵜戸神社御宝殿改築棟札では、御宝殿は長久四年(一〇四三)葵末建立されていたそうである。

 今は、陵墓しての吾平山上陵だけが伝えられ、神仏の威あらたかな大権現とは切り離されてしまっており、大権現と併せたその心霊来格なる吾平山上陵が祀られていないのは、大変寂しいことである。

 この地に住む人々だけでなく初代天皇の御両親が祀られているという日本人としての心の拠り所として、神仏こんこうされた崇高な場所として、もっと地域が目を向け大事にしていくべきだろう。

注目の記事